【Netflix】『ヴィレッジ』『そして、生きる』

ヴィレッジ』『そして、生きる』を観ました。

どちらも、都会ではない、田舎の片隅で生きる人間たちを描いているのですが、『ヴィレッジ』が暗部だとすると、『そして、生きる』は、東日本大震災をきっかけとした出会いと成長を描いているようです。




無責任な悪意

日本ムラ社会に横たわる、無責任な悪意は、噂話となってあらわれます。

そして、無責任な悪意と、ムラ社内におけるカーストは、表裏一体と言っても良いのではないでしょうか。

ヴィレッジ』は、ゴミ処理場の誘致がきっかけとなって、カースト最下位に落とされた家の子ども=横浜流星さんが演じる主人公が、カーストを這い上がる経緯がドラマの前半に描かれます。


いっぽう、『そして、生きる』には、日本ムラ社会における無責任な悪意は存在しないようです。

地元アイドルとして活動する主人公(有村架純さん)は、女優になる夢を持っていますが、東日本大震災のボランティア活動で知り合った男(坂口健太郎さん)と恋に落ちます。

そして妊娠してしまうのですが、相手のことを考えて、妊娠を知らせずに未婚の母になろうとします。


そして、生きる』の違和感は、地元アイドルが未婚の母になろうとしたら?という点です。

表面的には応援するようなことを言う大人の中には、無責任に噂話を流すような人物が必ずいるはずなのですが、そういう人物は登場しません。

SNSすら登場してきません。

東日本大震災のころは、SNS利用者は少なかったかも知れませんが、存在したはずであり、無責任な悪意を吐露する場として最適なはず。

つまり、日本ムラ社会に横たわるカーストや無責任な集団心理が、どこにもないのが、作品の違和感に通じているのです。

ヴィレッジ』が、村八分としての「いじめ」を隠さないのは、それがムラを牛耳る一族の考えだから。

ヴィレッジ』は、『ノイズ』や『ガンニバル』に通じる村社会の暗部を描いていると感じました。




美しい「過去」に依存するな

そして、生きる』のなかで良いなと感じたのは、萩原聖人さんが、坂口健太郎さんに対して発する言葉です。

ボランティアを通じて、気仙沼の人々と親しくなった坂口健太郎さん演じる男が、傷心で気仙沼に戻り、復興して元気な姿を見せる萩原聖人さんに対して、ボランティア時代を振り返り、「気仙沼のためにもう一度何かしたい」と発したとき。

地元民として萩原聖人さんは、「美化するな」「過去に依存するな」という意味の言葉を発します。

よく、過去を振り返って、「あの頃は良かった」話をする人がいますが、そういうこと自体が、その人の歩み・前進を止める、というのです。

そして、生きる』では、選択を重ねて、常に前進しようとする主人公の有村架純さんと、前進をやめてしまった坂口健太郎さんという対比が描き出されています。

いっぽう、『ヴィレッジ』では、現体制(カースト)を維持しようとする古田新太さん演じる村長一族に対して、主人公の横浜流星さんは、絶望して村長一族を根絶やしにしようとして、物語は終わります。

映画はそこで終わっているので、体制維持派を根絶やしにできたかどうかはわかりません。



日本ムラ社会を描いた作品が増えてませんか?

ここ数年、話題作と言われる映画やドラマを観ていると、横溝正史作品のような、ムラ社会を現代に置き換えたような作品が増えているような気がします。

かつて漫画家は、出版社のある東京に引越す必要がありました。

しかし現在では、地元から離れることなくして、作品を発表することができるようになりました。

小説家も同様です。

東京に出なくても自分の作品を残すことができるようになったことが、日本ムラ社会を描くことに通じているように感じます。

また、読者も、都会生活に憧れを持つのではなく、地元で生活することを選ぶ人が増えているので、ムラ社会の暗部に共感・共鳴できるように思います。

そういう視点でみると、『ヴィレッジ』は、ムラ社会の古臭さを描いているように見えて現代を描き出しているのに対し、『そして、生きる』は、相手の幸せを願う「良い人」だけを登場させることによって、過去でも現代でもないフィクションを描いているのではないかと思います。

ヴィレッジ』も『そして、生きる』も、寝落ちせずに観られたので、良作なのだと思います。


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