断捨離は得意ですか?
面川は、どちらかといえばミニマリストの考え方に近いと思います。
読んだ本は売る(著者サインがない場合)。
必要のなくなったものは売る。
着なくなった服はユニクロに戻す。
手紙は1年くらい保存したら廃棄する。
ハガキは読んだら捨てる。
どうしても残しておきたいものは、写真に撮って保存するようにしています。
ところが、断捨離をしなかったのか、できなかったから、上杉家文書は国宝になったようなのです。
内容的には、次のように大別できるようです。

そして、米沢で国宝上杉家文書をみたときに博物館の方に聞いたところでは、上杉家文書は、当時の状態で、2000点以上がタンスにしまわれていたために、国宝に指定されたのだそうです。
このような状態で、そのまま保存されることはほとんどなく、有名な人物の手紙は切断されて、巻物に作り変えたりすることが多いために、当時の姿のままに残されているものは少ないのだそうです。
戦国時代には、越後の守護代であった三条長尾家の長尾景虎(後の上杉謙信)に上杉家の家督を譲ります。
謙信の家督を継いだ上杉景勝は、豊臣政権の五大老を務め、会津藩120万石となります。
しかし、関ヶ原の戦いで西軍に味方したことから、出羽米沢に移転・減封されます。
上杉謙信以降でみると、上杉家は越後から能登・加賀を領有していましたが、豊臣秀吉によって会津に引っ越しさせられ、さらに徳川家康によって米沢に引っ越しさせられています。
2回も引っ越ししているのに、手紙が大量に残されているなんて・・・・。
断捨離できない上杉家・・・。
しかし、断捨離できなかったからこそ、上杉家文書は国宝に指定されたわけで・・・。
なんでも捨ててしまうのは、良くないのかも・・・?
4分の1です。
それなのに、家臣はそのまま引き連れて、米沢藩に移動したそうです。
大企業が売上激減したら、従業員を解雇するものです。
つまり、人の断捨離ですね。
しかし、上杉景勝はそうはしませんでした。
この上杉景勝が、断捨離はできない人だったのかもしれません。
人も物もすべて温存し、いっしょに頑張る。
景勝以降の藩主は、さらなる不幸に見舞われます。
凶作、そして男系が途絶えたことから御家断絶の危機にさらされます。
このときは、上杉綱勝の正室の父である、会津藩主保科正之が奔走し、綱勝の妹富子と高家の吉良義央との間に生まれていた当時2歳の綱憲を末期養子とすることで御家断絶を免れます。
しかし、このときのペナルティで、さらに石高は減らされ、15万石にまで縮小します。
江戸時代初期に、これだけの苦労をした上杉家は、超貧乏だったことがうかがえます。
藩政と財政の再建を目指して、大倹令を発布。
鷹山自身の生活費を大幅に切り詰め、奥女中も大リストラ。
さらに殖産興業につとめ、世襲代官制度を廃止したりします。
上杉鷹山の改革は、上杉家譜代の老臣らから根強い反対がありました。
鷹山が断捨離できるミニマリストだとすると、上杉家家臣は断捨離できない人々。
対立は激化し、反対家臣の須田満主、芋川正令らが処分されましたが、老臣らが上杉鷹山の腹心・竹俣当綱を失脚させるなど、勢力争いが続いたのです。
財政難にあっても家臣を捨てなかった上杉景勝は、家臣にしてみれば神様。
神様のように考え、神様のように行動することが、上杉家家臣団に染み付いていたのではないでしょうか。
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【中野信子/本郷和人】「戦国武将の精神分析」
面川は、どちらかといえばミニマリストの考え方に近いと思います。
読んだ本は売る(著者サインがない場合)。
必要のなくなったものは売る。
着なくなった服はユニクロに戻す。
手紙は1年くらい保存したら廃棄する。
ハガキは読んだら捨てる。
どうしても残しておきたいものは、写真に撮って保存するようにしています。
上杉神社 |
ところが、断捨離をしなかったのか、できなかったから、上杉家文書は国宝になったようなのです。
国宝上杉家文書とは?
文化遺産オンラインには、次のように記載されています。- 旧米沢藩主上杉家に伝来した古文書で、南北朝・室町時代の文書を中心に、江戸時代にいたる二千余通を存している。
- 上杉家文書は、大別すると山内上杉家文書、越後国守護上杉家文書、府内長尾家文書、古志長尾家文書および謙信、景勝、定勝以降の上杉氏文書に分けられる。
内容的には、次のように大別できるようです。
- 元徳4年(1332)2月29日附足利高氏安堵状をはじめ、南北朝時代の尊氏、直義の自筆書状、御教書、御内書を含む文書
- 室町時代の山内上杉氏の所領・相続関係の文書
- 長尾為景時代の越後国衆の動向を伝えた文書
- 謙信時代の対外発展と、室町将軍および武田、北条などの近隣諸大名との交渉に関する文書
- 景勝時代の豊臣政権との連携を語る文書
そして、米沢で国宝上杉家文書をみたときに博物館の方に聞いたところでは、上杉家文書は、当時の状態で、2000点以上がタンスにしまわれていたために、国宝に指定されたのだそうです。
貴族の手紙は丸めて |
このような状態で、そのまま保存されることはほとんどなく、有名な人物の手紙は切断されて、巻物に作り変えたりすることが多いために、当時の姿のままに残されているものは少ないのだそうです。
2回も引っ越し大移動した上杉家
上杉家は、公家である藤原家の支族の一つであり、足利時代には、上野、越後、武蔵、相模の4か国の守護を占める有力守護大名にになり、関東管領となります。戦国時代には、越後の守護代であった三条長尾家の長尾景虎(後の上杉謙信)に上杉家の家督を譲ります。
謙信の家督を継いだ上杉景勝は、豊臣政権の五大老を務め、会津藩120万石となります。
しかし、関ヶ原の戦いで西軍に味方したことから、出羽米沢に移転・減封されます。
上杉謙信以降でみると、上杉家は越後から能登・加賀を領有していましたが、豊臣秀吉によって会津に引っ越しさせられ、さらに徳川家康によって米沢に引っ越しさせられています。
2回も引っ越ししているのに、手紙が大量に残されているなんて・・・・。
断捨離できない上杉家・・・。
しかし、断捨離できなかったからこそ、上杉家文書は国宝に指定されたわけで・・・。
なんでも捨ててしまうのは、良くないのかも・・・?
上杉家と米沢藩
上杉家が米沢に移る際に、石高は120万石から30万石に減らされています。4分の1です。
それなのに、家臣はそのまま引き連れて、米沢藩に移動したそうです。
大企業が売上激減したら、従業員を解雇するものです。
つまり、人の断捨離ですね。
しかし、上杉景勝はそうはしませんでした。
この上杉景勝が、断捨離はできない人だったのかもしれません。
人も物もすべて温存し、いっしょに頑張る。
景勝以降の藩主は、さらなる不幸に見舞われます。
凶作、そして男系が途絶えたことから御家断絶の危機にさらされます。
このときは、上杉綱勝の正室の父である、会津藩主保科正之が奔走し、綱勝の妹富子と高家の吉良義央との間に生まれていた当時2歳の綱憲を末期養子とすることで御家断絶を免れます。
しかし、このときのペナルティで、さらに石高は減らされ、15万石にまで縮小します。
江戸時代初期に、これだけの苦労をした上杉家は、超貧乏だったことがうかがえます。
上杉鷹山のケチケチ大作戦
上杉鷹山といえば、世界に知られる米沢藩主です。藩政と財政の再建を目指して、大倹令を発布。
鷹山自身の生活費を大幅に切り詰め、奥女中も大リストラ。
さらに殖産興業につとめ、世襲代官制度を廃止したりします。
鷹山が挑戦した温泉で塩田 |
上杉鷹山の改革は、上杉家譜代の老臣らから根強い反対がありました。
鷹山が断捨離できるミニマリストだとすると、上杉家家臣は断捨離できない人々。
対立は激化し、反対家臣の須田満主、芋川正令らが処分されましたが、老臣らが上杉鷹山の腹心・竹俣当綱を失脚させるなど、勢力争いが続いたのです。
断捨利できないDNAは根深い?
上杉景勝以来の家臣にしてみれば、鷹山の考えは新しすぎたのかもしれません。財政難にあっても家臣を捨てなかった上杉景勝は、家臣にしてみれば神様。
神様のように考え、神様のように行動することが、上杉家家臣団に染み付いていたのではないでしょうか。
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