過剰と破壊の経済学、ふたたび

論文の参考にならないかと、改めて池田信夫氏の「過剰と破壊の経済学 「ムーアの法則」で何が変わるのか? (アスキー新書 042) (アスキー新書 42)」を再読。
そして、驚きました。
三浦 展氏の「日本溶解論―ジェネレーションZ研究 この国の若者たち」となんだか似通った意味の文章が並びます。

三浦氏が、「『近代家父長制家族』や地域共同体、あるいは地域共同体的会社組織などの「固体」が分割・粉砕」されれば、「個人が家庭や地域共同体や会社組織という小さな社会を介してではなく、グローバル化した大きな社会に直接触れ、社会から直接影響を受けるため、社会に溶け出さざるを得なくなる」とし、「グローバリゼーションの進展は、企業の競争を激化させ、非正社員という雇用形態を増やした。会社組織に属する正社員という『固体』的な立場から解き放たれた個人は、一面では自由を得たが、他方では安定を失った。そして、安定を失った個人は、自己責任で競争し、成功することを求められるようになった」と書いているかと思えば、全く異なる視点から池田氏もまた次のように指摘しています。
あくなき利己主義と急激なイノベーションに駆り立てられるグローバル資本主義は、流動的でダイナミックな、しかし不安定で危険なシステムである。そしてムーアの法則は、情報処理の主役を大企業や官僚からユーザーに移して『民主化』し、ITで武装した個人が直接グローバルにつながる世界を実現した。それはフラット化してみんなが平等になるユートピアではなく、既存の権威や肩書が意味を失ってすべての個人が対等に競争し、情報処理能力による所得格差が拡大する孤独な世界である」。

どちらも、社会の枠組みから一歩離れたところに存在する個人は、不安定で孤独だということを示しているのだと思います。

三浦氏はジェネレーションZと自ら定義する20歳以下の若者のアンケート調査結果から、そして池田氏はムーアの法則から読み取れる将来について経済学的視点から、それぞれ同じような意味の発言を行っています。
ここから読み取れるのは、デジタルネイティブはまさしくインターネットの申し子、born digital だということでしょう。

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