今上天皇退位と光格天皇

2019年4月30日に退位が決まった今上天皇ですが、ニュースなどでよく「光格天皇以来200年ぶりの生前退位」というフレーズを聞きます。

明治神宮

ところが、江戸時代の天皇ということもあり、この光格天皇のことを知る人はほとんどいないのではないでしょうか。

かくいう私もそのひとり。

そこで、以前このブログでも紹介した「歴代天皇大全」をめくってみることに。

あらためて光格天皇を知ると、そこには皇室の今後を考えるときのヒントがあると感じるのでした。




「籠の中の鳥」江戸時代の皇室

1615年に、江戸幕府は「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を公布し、史上はじめて天皇が法律に記載されました。

このなかで、天皇は「御学問」を第一に励むこととを規定され、政治に関する権限が奪い去られます。

とはいえ、江戸初期の後水尾(ごみずのお)天皇や霊元(れいげん)天皇は、幕府に反抗して突然退位したり、院政を敷いたりしました。

しかし、東山(ひがしやま)天皇の代に、財政的理由から、室町時代に途絶えていた大嘗祭(だいじょうさい)が復活されましたが、天皇の外出を禁じる幕府への配慮から、河原での御禊は省略されたという史実もあります。


武家政権の経済的援助で生き長らえる朝廷

しかし、織田信長以来の武家政権(江戸幕府も)が、朝廷に対して経済的支援を行っていることも事実です。

天皇家が分裂して北朝と南朝に天皇がわかれてしまった南北朝時代から、室町時代から戦国時代への幕開けとなった応仁の乱などが起こり、朝廷の権威は地に落ちます。

織田信長が経済的援助をおこなう以前の天皇は、経済的な理由から悲惨な状態に置かれます。

葬儀費用がなかった後土御門(ごつちみかど)天皇

応仁の乱がはじまった当時の天皇です。
すでに朝廷儀式の多くが途絶えています。
後土御門天皇は、葬儀費用がないために、1カ月以上も御所に置かれたという方です。
この頃がもっとも朝廷が衰微していたときでしょう。

在位22年目に即位礼をおこなった後柏原(ごかしわばら)天皇

深刻な財政難のなか即位礼を行うことができず、本願寺の実如(じつにょ)や室町幕府からの献金で、在位から22年目に即位礼を行うことができました。
しかし大嘗祭は行うことができず、
「やせ公卿の麦飯だにもくいかねて即位だてこそ無用なりけり」
と揶揄されるほどに、その権威は地に落ちている頃です。
しかし、父・後土御門天皇の遺志もあり、節会・春の除目・春日祭へ勅使派遣、大元帥法(だいげんのほう)など、朝儀を再興しています。

節会

日本の宮廷で節日(祝の日)などに、天皇のもとに群臣を集めて行われた公式行事のことで饗宴をともないます。

春の除目

京官、外官の諸官を任命すること。またその儀式自体である宮中の年中行事を指します。
春の除目は、諸国の国司など地方官である外官を任命します。
天皇の御料地である県の官人を任す意味から、県召の除目(あがためしのじもく)ともいい、中央官以外の官を任じるから、外官の除目ともいわれます。

春日祭

奈良県奈良市の春日大社の例祭。
春日祭は、藤原氏の祀りとして藤氏長者・斎女またはその名代の使者が参詣し、朝廷からも上卿・弁が定められて使者が派遣されていました。

大元帥法

真言密教における大法(呪術)の1つ。
大元帥明王を本尊として、怨敵・逆臣の調伏、国家安泰を祈る修法で、承和6年(839年)に、常暁が唐から法琳寺に伝えました。
翌年には、常暁が大元帥法の実施を朝廷に奏上し、仁寿元年(851年)に大元帥法を毎年実施することを命じる太政官符が出されました。

官位・栄典を売った時代の後奈良天皇

父・後柏原天皇と同様に、即位礼が在位11年目に行われました。
即位礼の費用は、大内氏、朝倉氏、後北条氏、今川氏など、戦国大名として名を成してきた大名からの献金に頼りました。
衰微の極に達した朝廷は、官位や栄典を金銭に換えることを盛んに行うようになりました。

信長・秀吉からの援助を得た正親町(おおぎまち)天皇

天皇の権威を利用しようとした織田信長の援助を受け、御所の修理、朝儀復興、御料地の回復などが行われ、朝廷が立て直されました。
秀吉は信長にならったため、この時代に天皇の権威が盛り返しました。


今上天皇の直系祖先・光格天皇

光格(こうかく)天皇は、幕末にくわしい人ならご存知の、孝明天皇の直系の祖父にあたります。
つまり明治天皇は、光格天皇の玄孫にあたり、今上天皇の直系の祖先となります。

万世一系の天皇家は2000年の歴史をもつ、世界一歴史のある王室としても知られますが、光格天皇は閑院宮家から天皇になったという方です。

大嘗祭を復活した東山天皇が、第4の世襲親王家として創設したのが閑院宮家です。
東山天皇の第6皇子・直仁(なおひと)を始祖としています。

世襲親王家とは、江戸幕府が認めた皇位継承の資格をもつ宮家のことで、ほかに伏見宮(ふしみのみや)家、桂宮(かつらのみや)家、有栖川宮(ありすがわのみや)家がありました。

伏見宮家

世襲親王家の中では最も歴史が古く、持明院統の嫡流で北朝の崇光天皇の第1皇子・栄仁(よしひと)を初代とします。
第3代貞成(さだふさ)の王子・彦仁王(ひこひこおう)が称光天皇の崩御後、正長元年(1428年)に後花園天皇となって皇位を継承しました。

桂宮家

正親町天皇の第1皇子である誠仁親王の第6皇子・智仁(としひと)を祖とします。
智仁親王が作った別邸が、桂離宮として現在も親しまれています。

有栖川宮家

後陽成天皇の第7皇子・好仁(よしひと)親王を始祖としています。はじめは高松宮と称しました。
第2代良仁(ながひと)は皇統を継ぎ、後西(ごさい)天皇となりました。


光格天皇とはどんな方?

本来であれば出家して聖護院へ入る予定でしたが、後桃園(ごももぞの)天皇の急逝を受けて天皇家の養子となって即位しました。

在位中には、京都市中の8割以上が焼けてしまったという天明の大火を経験します。

光格天皇は温和な賢帝として信望を集めますが、父の典仁(すけひと)親王に太上天皇の尊号を送ろうとして幕府と衝突します。

尊号一件

このときの幕府方は松平定信。
徳川吉宗の孫で白河藩主、寛政の改革を手掛けた老中です。

光格天皇は、父・直仁親王よりも位が上になってしまったうえに、禁中並公家諸法度における親王の序列が摂関家よりも下であることに不満を覚えた光格天皇は、父に太上天皇の尊号を送ろうとした事件が、尊号一件です。

幕府と朝廷の関係悪化を招きかねなかった尊号一件ですが、典仁親王の実弟(天皇からみて叔父)でもある鷹司輔平(たかつかさすけひら)が、松平定信に事の次第を告げて、尊号を断念する代わりに典仁親王の待遇改善を求め、これが認められて落着します。

ちなみに、典仁親王は明治天皇の直接の祖先にあたるということで、1884年(明治17年)に慶光天皇の諡号と太上天皇の称号が贈られています。

この事件は、尊王運動のきっかけとなった事件としても知られていて、幕末の倒幕運動にも影響を与えています。


直近の直系祖先・光格天皇からわかる今後の皇室

次期天皇である浩宮さまに男子がいないことから、継承順位は弟の秋篠宮、秋篠宮家の男子・悠仁(ひさひと)親王となっています。

では、その次は?

天皇家には、直系男子が悠仁親王以外には存在しないことを考えると、女性宮家創設もありそうですが、時の天皇にもっとも血筋が近い男子が養子となって、皇統を継承するのではないかと想像できます。

明治時代に創設された宮家はたくさんありますが、その後廃絶されました。
血統的には光格天皇、明治天皇の子孫ではありますが、今上天皇との血筋とはすでに遠くなっています。

光格天皇は、東山天皇の血統であり、直前の後桃園天皇も東山天皇の血統です。

となると、悠仁親王にもし男子が生まれなかったら、今上天皇の子孫である男子(宮家にかぎらず)が養子となる可能性がありえるのではないでしょうか。

女性だから宮家になれないというのは時代錯誤ですし、女性天皇は何人もいました。
ただ、日本社会では、女性が天皇になったとしたら独身の可能性が高く、子孫が望めません。

歴代の女性天皇も独身の場合が多く、次代には先の天皇の子や孫が即位しています。

このような視点から考えると、女性天皇や女性宮家は、皇室の子孫繁栄にはさほど貢献しないと考えられます。

また、光格天皇は生前退位をした直近の天皇であり、今上天皇が生前退位を決めた背景に、直近祖先の光格天皇のことが思い起こされた可能性もあります。

光格天皇は在位37年で、仁孝天皇に譲位しました。
その23年後に光格天皇は薨御されます。

つまり、まだまだ元気なうちに譲位することで、自らは太上天皇となって仁孝天皇を補佐する道を選びました。

高齢の今上天皇に対して、法律・制度面から生前譲位に異議を唱える方もいらっしゃいますが、どんな家でも、今上天皇の年齢になったら表舞台からは姿を消し、家族に支えられながら生活を送るほうが普通です。

今上天皇の生前退位が前例となって、これからの皇室では生前退位が認められやすくなるのかもしれません。


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