先日参拝した馬場都々古別神社の宮司さんから、因縁めいた、しかし日本にとっては良い話をうかがいました。
それは日光東照宮に関するもので、戊辰戦争後の会津藩主・松平容保公と家老の西郷頼母に関するものです。
馬場都々古別神社にありました |
この話のきっかけは、上の写真にある西郷頼母が馬場都々古別神社の宮司をつとめていたことに端を発します。
説明によると、
西郷頼母近悳は、会津藩松平家の家老を代々務める家柄であり、戊辰戦争では恭順を唱える者の聞きいれられず、会津藩の白河口総督として戦った。しかし、伊地知正治が率いる新政府軍による総攻撃を受けて敗北した。
会津での戦いの後、箱館での戦いにも参戦したが、敗れて幽閉され、釈放後伊豆に漢学舎を開いた。
明治8年(1875)8月、内務省の発令により、保科近悳の名前でここ馬場都々古別神社の宮司を約3年間務めた。
明治13年(1880)に旧藩主である松平容保が日光東照宮の宮司となり、頼母は禰宜となって落城後の再会を果たしている。とあります。
保科姓で馬場都々古別神社の宮司に
「こちらの宮司さんだったんですか~」とわたしが言うと、現在の馬場都々古別神社の宮司さんが
「そのころは保科姓でね、代々の宮司名は伝わっているから知ってましたけど、わざわざ言って回るほどじゃないからね~。八重の桜のときにこれが建てられまして」。
さらに私が
「東照宮の禰宜もやっていたんですね」
というと、宮司さんは
「日光東照宮が世界遺産になったのは容保公と頼母さんのおかげだからね」
とさらっとおっしゃるではないですか!?
宮司さんは「平成の修復だって、基礎になってるのは容保公と頼母さんがいろいろと残しているからできてるんですよ」と続けます。
徳川家の祖廟・日光東照宮を取り壊す!
松平容保が明治5年には赦免され、13年には日光東照宮5代目の宮司となったことが、東照宮Webサイトにも掲載されています。主君の赴任と同時に、会津藩の家老であった西郷頼母近悳(保科近悳)も宮司を補佐する禰宜職に就任します。
その頃の東照宮は、幕府からの庇護を失い、経済的に困窮して、社殿修理に困難をきたすような状態でした。
江戸時代には20年から30年に一度は修復を行っていた日光東照宮も、徳川幕府の祖廟ということで廃絶、取り壊しの話まで出ていたほどなのです。
松平容保が行った東照宮保全事業
そんな状況の中、宮司となった松平容保は、日光の文化財保全を目的とした民間結社・保晃会(ほこうかい)の初代会長に就任し、県議会の初代議長・安生順四郎を筆頭とする地元有志とともに、全国からの募金を基金にし、その利子を社寺の修繕費にあてました。松平容保が行った東照宮保全事業は、その後、大正・昭和・平成へと引き継がれ、社殿修理が行われています。
藩祖・保科正之に翻弄された?
ドラマでは明治新政府が成立するあたりで終わってしまう幕末維新時代。
徳川幕府は終焉を迎えても、徳川家・松平家の人々とその近習は、明治時代にも足跡を残しています。
その一例が、日光東照宮における松平容保と西郷頼母の働きでしょう。
馬場都々古別神社には、江戸時代に東照宮から分祀した小さなお社があります。
立ち入り禁止なのでそばで見ることはかないませんが、宮司さんいわく、江戸時代の建築物としては立派なものだそうです。
それにしても、と思います。
日光東照宮に現存する豪壮華麗な建物の多くは、家光時代の寛永の大造替時のもので、会津松平藩の藩祖である保科正之は、その家光の腹違いの兄弟。
容保は保科正之が定めた会津藩家訓十五カ条に従う形で、徳川幕府につき従い、戊辰戦争へと突入してしまいます。
そして東照宮の修繕事業。
現在の日光東照宮の基礎を築いたとはいえ、会津松平家と徳川家のあまりに因縁めいたお話のように思うのはわたしだけでしょうか。
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