徳一上人が開山した慧日寺には謎がいっぱい!




先日、国の史跡である「慧日寺跡」に行ってきました。


以前から行ってみたい場所ではあったのですが、
「はやく行ってみたい!」
と強く思ったのは、荒俣 宏さんの「風水先生「四門の謎」を解く」を読んだからです。

この本の内容については、ブックレビューをお読みくださいませ~。

どうして「行かねば!」と触発されたかといいますと、国学者の平田篤胤が見つけ出したという「瑠璃尺」が、慧日寺にあったからなのです。

明治の廃仏毀釈で慧日寺は消滅したのですが、そのときに「瑠璃尺」は流出し、九州国立博物館の開館記念特別展「美の国日本」に出陳されたという、いわくつきです。




慧日寺は法相宗の北上計画の拠点か?

慧日寺を開山した徳一上人という人は、どんな人なのでしょうか。

生没年不詳ですが、奈良の興福寺・東大寺に学んだ学僧で、天台宗の最澄と教義について論争したことで有名です。

徳一は、奈良を出て茨城県・福島県を中心に90ほどの寺社を開山しています。

仏教(法相宗)を東北地域に広めるという目的をもっていた人物のようなのです。

そして、天台宗もまた東北地方へ天台宗を広めようと推し進めており、少し調べたところでは勢力争いをしていたころのようです。

興福寺にならったと考えられる石敷き広場


桓武天皇と南都六宗

徳一や最澄、空海が活動していた時期は、桓武天皇による蝦夷討伐が大々的にスタートした時期と重なります。

そして、奈良を拠点とする南都六宗のひとつである法相宗は、早良親王の怨霊封じに成功したことで天皇家との関係を深めていた宗派です。

しかし、桓武天皇(百済系渡来人の母を持つ)は、南都六宗の影響力が強い奈良の地を捨てて平安京に遷都したともいわれるほどの南都六宗嫌い。

なかでも法相宗は、南都六宗のなかでも当時は最盛期にあたっており、桓武天皇の南都六宗への弾圧は法相宗がターゲットであったようです。

そして、平安京の鬼門を守る天台宗の総本山の比叡山延暦寺の最澄に対して、密教を広めるようにと命じているのです。

国家鎮護の役割を最澄や空海にもとめる一方、奈良で興隆した宗派へ圧力をかける桓武天皇ですが、これには、偶然というかラッキーにも天皇になってしまった、武天皇の出自に関係がありそうです。

平安京は、秦氏(渡来人)が差配した場所に決まり、秦氏の財力によって完成したと伝わります。

また、遷都を指揮した藤原小黒麻呂の父は秦氏といわれており、渡来人ネットワークを駆使して遷都しています。

天皇家のなかでも異色の出自であった桓武天皇が、南都六宗をしりぞけるには、天皇家内部の勢力争いが影響していたと思われるのです。

慧日寺の入り口には結界が!


坂上田村麻呂と蝦夷討伐

時の権力者は最澄・空海を支持し、東国の蝦夷討伐に大号令をかけているという時、徳一は東北地方へ法相宗を伝えるために旅立ちます。

政治的に見れば、法相宗または徳一は、反・桓武天皇政策を持っていた可能性があります。

もしかすると、東国の蝦夷とともに、桓武天皇を打倒するというようなことを考えていたのではないでしょうか。

その拠点づくりのために、徳一は各地に寺を作ります。

しかし、天台宗もまた、対蝦夷対策もあってか、東国を教化しネットワークを拡大していました。

蝦夷に対して抵抗するのか、融和策をとるのか。

そんな背景があって、徳一は天台宗をたたくという行動に出ます。

それが、徳一が著した『仏性抄』です。

天台宗の根本経典である『法華経』を批判し、最澄が推し進めてきた「どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られると説く一乗説」を批判するのです。

ここから、徳一と最澄の論戦が始まります。

徳一廟
廟のなかにある石塔
これを撮影してるときに「コツ、コツ」という音が聞こえて
震えあがってしまいました。


平将門が慧日寺に山門を寄進

桓武天皇の子孫である平将門が、東国に独立国を築こうとした乱(939年~940年)は、慧日寺を開山した徳一の考えに通じるものがあったのか、将門は慧日寺に山門を寄進しています。



現在の山門は江戸時代の再建ですが、簡素でありながらも立派な山門です。

さらに、冒頭に書いた「瑠璃尺」を慧日寺にもたらしたのが、平将門の三女・如蔵尼であるといわれています。

如蔵尼の墓碑

自らを新皇と称した平将門の志を後世に伝えるために、如蔵尼は「瑠璃尺」を持ち出したのだろうと推測されていますが、なぜ物差しが為政者の証なのか?ということを知らなければなりません。

度量衡の基準となる物差しは、国家をおさめる為政者の持ち物です。

「瑠璃尺」は、正しくは撥鏤尺(ばちるじゃく)と呼ばれる、象牙でできた物差しで、天皇しか持つことのできないものです。

基準となる尺度は厳正に管理されなければ、徴税をはじめとする国の根幹が揺らぎます。

そのため、基準尺度である撥鏤尺を持つ者が、国家を治める者の証なのでした。


猪苗代湖の出現と慧日寺の開山

さらなる慧日寺の謎は、猪苗代湖との関係です。

福島県のほぼ中央に位置する巨大湖・猪苗代湖ができたのは大同元年です。

通説では磐梯山が爆発したとされていますが、猪苗代湖周辺で溶岩などが見つかっていないことから、長期にわたる地震によって地盤沈下したところに水がたまり、猪苗代湖になったのではないか、という説もあります。

慧日寺は、正式名称を磐梯山慧日寺といいます。

その名のとおり、磐梯山のふもとの小高い場所に、猪苗代湖が出現した翌年に開山されました。

これは風水ですよね。

奥羽山脈につらなる磐梯山と猪苗代湖。

しかも、風でエネルギーが流れ出てしまわないかのように、正面には山並みがあります。

その風水効果か、最盛期には寺僧300、僧兵数千、子院3,800を数えるほどの隆盛を誇ります。
すごいですね。

源平合戦にも僧兵を派遣したりしたそうです。



気軽な慧日寺跡の散策、と思って出かけたわけですが、猪苗代湖の出現と前後して開山したお寺であること、法相宗の当時のポジション、平将門などが登場するにつれ、どんどんおもしろくなってしまいました。

慧日寺には謎がいっぱいです。

妄想をはたらかせて史跡をめぐると、わくわくすること間違いなしです。


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